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過去最強最悪のヤクザ 「悪魔のキューピー」と呼ばれた男

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人は外見と内面のギャップが大きければ大きいほど、その対象に強い魅力を感じてしまいます。

今回は小柄で甘い顔立ちをしていながら、凶暴で残忍な性格を内に秘め、暴力にまみれた人生を送った伝説のヤクザ「悪魔のキューピー」こと「大西政寛(おおにしまさひろ)」の波乱万丈の生涯をご紹介します。

1973年に放映された深作欣二監督「仁義なき戦い」の若杉寛のモデルが大西政寛。梅宮辰夫が若杉寛役を演じていました。

裕福な家庭からの転落

1923年(大正12年)広島県呉市で裕福な商家の家庭に生まれました。

その後、1925年父親はモルヒネ中毒で亡くなり、母親は実家から追い出されてしまったため、大西は祖母の元で育てられることになりました。

祖母は大西を不憫に思い、彼を大いに甘やかした為、複雑な環境と甘やかしで大西は、手のつけられない悪ガキに育っていきました。

1930年地元の小学校に入学しましたが、学校ではクラスメイト達から家庭環境をからかわれることが多く、気が強い大西はその度に暴力による報復を行っていました。

小学5年生になったころ祖母が他界し、大西は再婚していた母に引き取られ、義父の家から小学校に通う日々を送りました。

教師への暴力

大西は真面目に授業を受けることはほとんどなく、いつまでたっても読み書きを覚えなかったため学校一の問題児となっていました。

読み書きを覚えない代わりに大西には芸術的な才能があったそうで、絵画コンクールで毎年のように入選や優勝していました。

13歳の時、学校の教師に「お前はペンキ屋にでもなるんじゃろうが、ペンキ屋は字も書かにゃならん」と暴言を受けたことに激昂し、教師を文鎮(ぶんちん)で殴打して、全治3ヶ月の大けがを負わせたことによって、学校を退学させられました。

文鎮(ぶんちん)

授業中もひたすら絵を描き続けていた大西の態度が原因だったそうです。

ヤクザの世界

13歳で学校を中退した大西は、義父の紹介で呉市の金属加工業を営む向井組で鉄骨の接合部分に熱したボルトを打ち込むカシメ職人の若衆として暮らすことになりました。

カシメ職人は造船に欠かせない花形職業だった事から収入も多く、大西は毎晩のように仲間と飲みに出かけていて羽振りも良かったそうです。

16歳の時食堂でビールを飲んでいたところ、軍人に絡まれ分が悪かったため一旦は引き下がりましたが、近所の商店で包丁を手に入れると食堂に戻り、軍人の腹を刺し、片耳を切り落としたそうです。

他にも、向井組が他の組と揉め事を起こした後、互いの組の代表者が和解の為に会談を行っていると、突然大西が乱入し腹巻から拳銃を取り出して相手の代表者に睨みをきかせるなどの武勇伝があります。

これらの行動がきっかけで大西の名は広く知られることになり、向井組には複数のヤクザ組織から大西を欲しがる声がよせられるようになったそうです。

中国への出兵

大西の色々な武勇伝が轟くようになり、当時の博徒社会を仕切っていた土岡組とも交流が生まれ、土岡組の舎弟になりました。

ですが、それから程なくして太平洋戦争の激化により大西は兵隊として中国に出兵することになりました。

中国の戦地に赴いた大西は持ち前の腕っぷしの強さを発揮し、次々と敵兵を切り捨て、鬼のような活躍を見せていました。

仲間思いだった大西は仲間たちに汚れ役を任せたくないという思いから、捕虜の首を切る処刑役も自ら買ってでていたそうです。

1946年、大西は23歳の頃に呉市に帰還し土岡組に復員しました。

戦争を経て凶暴性が増した大西は、町で少し絡んできただけのチンピラ相手に拳銃を突きつけ本気で引き金を引こうとするなど、手がつけられない狂犬になりました。

結婚

この頃、呉市内の喫茶店でウェイトレスをしていた色白の美女と結婚しました。

女性は初子さんという方で小柄で色白の美女だったそうです。

1948年の夏頃に長男が誕生していたものの、生後すぐに亡くなってしまいました。

腕切断

当時の土岡組は裏社会の覇権をめぐって「小原組・山村組・海生組」が手を結んだ三派連合と激しく対立してていました。

そして大西は、地元の盆踊り会場で姿を見つけた小原組の組長「小原馨(こはらかおる)」を裏の畑に呼び出し、「最近ごちゃごちゃうるさいんじゃ。お前なら腕1本でええわい」と言うと躊躇なく日本刀で切りつけ、左腕を根本から切断しました。

その後組長のピンチを聞きつけた小原組の舎弟がすぐに現場に駆けつけたのですが、大西は駆けつけた舎弟に対しても日本刀を振りかぶり舎弟の右腕も切断しました。

この時舎弟は鬼の形相を浮かべた大西に萎縮仕切っており一切抵抗できないまま腕を切断されてしまったそうです。

この衝撃的な事件がきっかけで可愛らしい外見からは想像もつかない程凶暴な男と言う意味が込められた「悪魔のキューピー」と言う異名がつけられました。

拘置所からの帰還

当時の大西は刑法上初犯だったのですぐに釈放されることになりましたが、それから程なくして、対立する組織間で起きたある殺人事件に関わり、共謀犯として再び拘置所に送られてしまいます。

拘置所の退屈な日々に耐えられなくなった大西は、当時の拘置所の病人や怪我人は治療のために釈放されるという仕組みに目をつけ、散髪係からカミソリをくすねると自身の腹を強く切り裂き大けがを負って再び外に帰還しました。

この時大西は自身の腹から腸を引き出しそれを両手で抱えた状態で病院に搬送されたのですが、全く痛がる様子を見せず「腸っちゅうのは思ったより重いもんじゃのう」と飄々と語っていたそうです。

しかし、これにより大西の罪自体が無くなった訳ではなく、傷が回復次第、拘置所に戻る必要があったため、これ以降大西は、自身を捕まえようとする警察から逃げ続ける日々を送ることになります。

懐柔

腕の切断の一件以降、三派連合は大西に恐怖を覚え土岡組に手を出すことを控えるようになったのですが、今度は大西を懐柔して味方につけようと動き始めました。

三派連合の中でも人身掌握に長けていた山村組組長「山村辰雄(やまむらたつお)」が大西の懐柔役を買い、山村は大西に対して、

・事務所に招待して手厚くもてなします。

・自身の妻を大西の妻に接近させ、観劇や買い物に連れ出す。

・警察から逃れるための隠れ家を提供する。

などの手段を用いて、大西の信用を獲得していきました。

これらの山村の行動は暴力に明け暮れて心が荒み切っていた大西の心に強く響き、その後大西は土岡組を裏切り、山村の元で三派連合のために動くようになりました。

大西の最後

その後、大西を味方につけた三派連合は裏社会の覇権を握るために、土岡組の組長暗殺を計画し、土岡組の内情に詳しい大西に暗殺の実行犯を任せようとしました。

しかし、大西を慕っていた山村組の美能(みのう)という男が兄貴に泥を被せる訳にはいかないとこれに反対し、最終的に美能が実行犯を請け負うことになりました。

1949年9月、美能は広島市の路上にいた土岡組の組長を襲撃し複数発の銃弾を組長に命中させたのですが、殺害には至らず、組長は搬送先の病院で一命を取り留めていました。

土岡組からの報復を恐れた三派連合は、大西と関わっていると勝手な行動を起こされて事がこじれるかもしれないという思いから、三派連合は大西との接触を避けるようになりました。

また、大西はこの一件の後、

・競馬で八百長を行った騎手に対して激しい暴行を加える。

・妻と街を歩いている所を酔っ払いの男性に絡まれ、その男性が大西を名乗った事から激昂し、その男性を射殺した。

などの凶悪な事件を立て続けに起こしてしまいます。

こうした中でこんな大西を捕えるべく、彼を指名手配して大捜査網を敷き、捜査の中で大西の隠れ家の情報を入手すると、1950年1月18日の早朝、40名もの人員を動員して隠れ家に乗り込みました。

そして大西は踏み込んできた警官を相手に銃撃戦を繰り広げ警官2名を射殺するなど激しく抵抗を見せた末に、窓から逃げようとした所を射殺されました。

27年の短い生涯を終えた大西は、その暴力と狂気に塗れた生き様は多くの人々に強烈な印象を与え、彼の死後もその生涯を綴った書籍や彼をモデルにしたキャラが多数誕生するなど、伝説のヤクザとして語りつがれています。

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